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憲法九条を世界遺産に

評価:
コメント:太田光・中沢新一/集英社/2006年

 2006年発行。先に紹介した『ルポ 改憲潮流』と同時期に、似たようなテーマについて、爆笑問題の太田光と人類学者、中沢新一の対談をまとめたもの。発行された当時、タイトルに衝撃を受けたことを覚えている。太田光がテレビで繰り返す発言が、特に護憲派のそれとも思えなかった当時だったのでなおさらだった。文中で中沢新一が何度も言っているように、世界遺産というのは面白い表現だと思う。
宮沢賢治、ドン・キホーテ、桜、武士道、宗教など、様々な譬から平和主義、憲法九条の精神、国民の姿勢などについて考えるという試み。それぞれの譬は、2人の持つ知識の深さを感じさせ、とても面白かったが、憲法九条や平和主義といった本来のテーマと結びつけると、どうもぎこちなさを感じた。それはなぜか。

 まず、憲法九条を巡る議論に、アジア・太平洋戦争があまり登場しない。平和主義を、「愛」という単語を使った精神論や、アメリカ・インディアンの平和主義の系譜といった点から語ろうとしている。どうも具体的にならない。太田光が「左翼」でも「右翼」でもない「中道」と評されていたが、それを意識し、具体的に発言することを恐れているために、議論が曖昧になってしまっているようにも思える。
また、両者とも、時代遅れな日本国憲法を変える、という立場の人に近い考えを持っているように思える。特に、日本国憲法をドン・キホーテに、自衛隊を「サンチョ・パンサ」に喩え、共に不可欠なものと語っている点で、それを強く感じた。憲法九条を拡大解釈することによって、いわば無理やり成立させ、その活動範囲がますます広がりつつある自衛隊を、「トリッキーなやり方」(168頁)評価している。「憲法」そのものの解釈も、国家の構成原理を表現したものとし、立憲主義としての捉え方とは少し違う(国家を或る種の生命体に喩え、憲法九条を免疫機構の解除とする中沢の解釈はとても面白いとは思うけれど)。他国から攻撃を受けるのを当然の前提としているようだし、天皇制と平和主義が根本では親和性を持っているとまで言う。にも拘らず、そうした立場からも「憲法九条を世界遺産に」という発想が生まれたという事実が、とても面白いと感じた。

 憲法九条を守り通して来たことに日本人の誇りがある、という考えや、憲法九条は「無邪気なまでに理想社会の具現を目指したアメリカ人と…、二度と戦争を起こすまいと固く決意した日本人との、奇跡の合作」という主張にも、どうも賛成できない。美化しすぎている気がする。理想社会の実現を目指したアメリカが、5年後の朝鮮戦争で振り出しに戻っていると太田光が語っているが、そうは思わない。アメリカは、終戦前から既に冷戦を見据え、西陣営に日本を組み入れようとしていたのであり、そのための原爆投下であり、天皇制の維持だったのだろうと思う。だとすると、憲法九条はどうして生まれたのかという疑問がわくが、その解釈はまた今後。

 全体を通して感じたのは、危機感の無さだった。それも、『ルポ 改憲潮流』を読んだ直後だったために尚更だった。日本の戦後史を批判的に眺めた場合、改憲論議の高揚は、批判さるべき負の部分の絶頂とも捉えられる事態だ。それに対し、この2人は日本の戦後史を寧ろ肯定的に概観しているようにも思える。観念的な論議に終始していることが、危機感の無さの現れに思えるのだ。中沢氏が「日本人の思考にとって、いちばん大きな混乱のもとは、戦争に突入し、戦争を遂行していった戦前の日本と、戦後の平和憲法のもとに発展をとげてきた日本とが、いったいどの部分では切れていて、どの部分ではつながったままでいるかということが、あいまいなままにされてきたことにあるでしょう」(17-18頁)という、戦後日本社会の本質を突くような、非常に重要な問題を提起しているにも拘わらず、それが全く深められていないことを残念に感じた。

at 15:19, kazimierz, 書籍

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ルポ 改憲潮流

評価:
コメント:斎藤貴男/岩波書店/2006年

 日本国憲法第九条をめぐる攻防は、戦後間もない1950年の警察予備隊の結成からすでに始まっていた。自衛隊自体の違憲裁判から、近年の周辺事態法、テロ対策特措法成立に至るまで、憲法九条は徐々に拡大解釈されてきた。先のハイチ大地震の際には、かつて海外派遣が問題になったことなど忘れられているかのように、ごく自然に自衛隊が派遣されていった。
この『ルポ 改憲潮流』は、憲法“改正”に賛成する人が過半数を上回る日本の現状に鑑み、憲法九条のみならず、立憲主義や報道の自由なども考慮に入れ、現在の改憲潮流の実態を探ろうとしたもの。様々な角度からの分析に、多くのインタビューが加えられ、著者の意図が非常に分かりやすい構成になっている良書だと感じた。

 個人的にも、改憲への動きは数年前から感じており、憲法九条“改正”の先に見える徴兵制への危機感を募らせていたため、手を出してみた。残念なことは、刊行が2006年であること。政権交代の後、カネの問題で揺れながらも普天間基地移設問題が大きく取り上げられているが、「改憲」に関する世論はどうなっているのか、非常に気になる。

日本国憲法 第九条(戦争の放棄・軍備および交戦権の否認)
1 日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 第1章では、改憲が叫ばれている背景にある、犯罪防止・生活の安全を名目に、民間自警団が増加している現状(2006年時点)を紹介。こうした民間の組織が、体感治安(人々が主観的に感じる治安の度合い)の悪化に伴い、仮想敵のイメージを膨らませ、排除のシステムとして機能する可能性を指摘する。この指摘はあながち大げさとも言えない。現に、今の日本では経済状況の悪化の原因を外へと転化する動きが顕著だ。自分達の生活を圧迫している存在が外にいる。外国人参政権への反対運動は、そうした考えの現れの一例だろう。また著者は、科学技術を駆使した国民管理体制の構築にも警鐘を鳴らす。自警団の形成と「国民総背番号制度」の確立が導くのは、密告社会・ハイテク監視社会である。そうした社会では、反権力的な思想の持ち主がそれだけで犯罪者として排除される。実際に、反戦などを唱えたことで逮捕されたいくつかの例がここには挙げられている。そのいずれも、住居侵入などの容疑で逮捕されながらも、公安刑事による取調べは、直接の容疑案件には触れられず、思想犯に対するような形で進められるという。最後に、警察主導で広がっている「県・警察・県民の相互協力」による防犯活動の広がりが、公権力による生き方への介入だとする反対意見が紹介されている。生き方への介入という文句から、自民党が推し進めている「愛国心」の法制化を連想した。

 第2章は、改憲論議に踏み込み、改憲と立憲主義に焦点が当てられる。2005年に公表された自民党の「新憲法草案」や民主党の「憲法提言」で示されたものは、権力制限規範としてだけでなく、国民の行動規範としての憲法であった。自民党の「新憲法草案」には、次のようにある:

 …これまでは、ともすれば、憲法とは「国家権力を制限するために国民が突きつけた規範である」ということのみを強調する論調が目立っていたように思われるが、今後、憲法改正を進めるに当たっては、憲法とは、そのような権力制限規範にとどまるものではなく、「国民の利益ひいては国益を守り、増進させるために公私の役割分担を定め、国家と国民とが協力し合いながら強制社会をつくることを定めたルール」としての側面も持つものであることをアピールしていくことが重要である。(45頁から引用)

 それに対し、危機感を募らせた日本弁護士連合会が「立憲主義の堅持と日本国憲法の基本原理の尊重を求める宣言」を採択したという。では、立憲主義とは何なのか。浦部法穂『全訂憲法学教室』(日本評論者、2000年)を参考に、次のような説明がなされている。国家の本質は「権力」にある。「権力」とは、他者を支配できる力、他者に対して服従を強制しうる力であるから、国家というものは「権力」の座にない一般の人々にとっては、本来対立するものである。そうであれば、「国を愛する心」というのは、「権力を愛する心」と同義となり、自分が暮らしている土地や共に暮らす人々を愛する気持ちとは別のものである。しかし、「権力」は人間が共同生活を営むためには欠かせないものである。これを、権力の側にある者の利益のために濫用されないように、縛るものこそ「憲法」である。これは、ロックやルソーの「自然権」思想を基に、イギリス、アメリカ、フランスなどの近代市民革命を経て確立したものだという。一方、日本国憲法は、近代立憲主義に貫かれた憲法ではあるが、戦後新憲法として採択されたものではなく、天皇を頂点とする大日本帝国憲法を「改正」したものだったために、形式的な曖昧さが残り、自民・民主のような憲法解釈が登場したのだということが指摘されている。また、自民党や民主党右派に近い人々によって結成されている『「21世紀の日本と憲法」有識者懇談会』(通称・民間憲法臨調)の主張にも言及。スイス憲法の「何人も、自己に責任を負い、国家及び社会における課題を達成するために、それぞれの能力に応じて、貢献しなければならない」という規定を参考にするべきだという主張に、徴兵制度成立の可能性を読み取っている。特高警察の血脈が政治家、中央省庁の高級官僚、地方議員、教育委員などに根を下ろしているという指摘には驚かされた。知っておくべき事実だろう。

 第3章、第4章では、靖国神社公式参拝問題と財界の改憲風潮とに言及。早くから改憲を主張してきた経済同友会だけでなく、日本経団連までもが改憲を主張するようになった契機は、湾岸戦争の際に平和主義を謳い経済援助だけにとどまった日本の国際援助が高く評価されなかったことにあるという。一方、靖国神社公式参拝が政教分離の原則に反するとして起こされた訴訟は何度も提訴されているが、憲法判断を下して意見とした裁判は2例に過ぎないという。さらに、自民党による新憲法草案は、憲法第二十条第三項「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」を、「国及び公共団体は、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超える宗教教育その他の宗教的活動であって、宗教的意義を有し、特定の宗教に対する援助、助長若しくは促進又は圧迫若しくは干渉となるようなものを行なってはならない」と改めようとしている。政教分離はヨーロッパ中世の大迫害、大論争を経てようやく導き出された近代的原則であろうが、それがここまで露骨な身内正当化行為のために歪められるというのは、全く情けない。この2章を通じた著者の主張は次のようなものだ。

 財界の主張する21世紀の日本の理想像は、あくまでもアメリカの世界戦略の一部を担いつつ、その範囲内で経済的利潤の極大化を図り得る経済大国。すなわちアメリカの衛星国でありながら、自らも小さな“帝国”でありたい、“衛星プチ帝国”だ。(124頁から引用)

 (憲法九条)第二項を改変させて国の交戦権を認めてしまえば、用語の定義次第で歯止めはなくなる。けれども日本は、アメリカのただ単なる属国、植民地ではないと思いたい。そのことを常に確認したいがために、折に触れて、ことさらに偏狭なナショナリズムを曝け出したがる。A級戦犯を祀った靖国神社を首相が参拝すれば、かつて日本軍に侵略された国の人々が苛立つのは目に見えている。彼らの反発に対して日本国民が自主的に敵愾心を燃やし始めれば、アメリカの一部としての衛星プチ帝国にとって、これほど都合のよい話はない。(125頁)

 現在の日本はまさにこの通りになっているが、果たして――。

 第5章では、憲法“改正”を国民に問うためのシステムである国民選挙法制定に向けての動きを扱っている。これは、具体的な改憲へのプロセスとして捉えることができる。2005年に自民党が打ち出した国民選挙法案に対しては、次のような懸念があったという。まず、二十歳未満や外国籍の人間に投票権が与えられていないこと。報道が規制される一方で、広告の出稿には制約がなく、自民党や財界がカネに物を言わせてテレビや新聞の広告を改憲一色で塗りつぶすことができる可能性がある。さらに、教育者や公務員がその地位を利用して国民投票運動をすることができないとしているが、「地位を利用し」たという判断を行なうのが官憲や裁判所だった場合、思想統制が行なわれる危険性があるし、教育者に含まれる大学の教授や助教授は改憲に対する異議を論じることができなくなってしまうというものだ。また著者は、マスコミが小泉首相や石原都知事に媚び、強いものには巻かれろ体質になっていることを批判している。さて、問題の法案は2007年4月に可決され、今年5月18日から施行される。投票権は18歳以上の日本国民(実質的には20歳以上)にのみ与えられ、広告規制は見られるものの、教育者に対する制限は設けられた。

 第6章では、読売新聞論説委員長と朝日新聞論説主幹それぞれにインタビューを行い、両社の姿勢を分析。改憲に向けてブレのない読売新聞社と、危うく揺れ、楽観的とも取れる態度を示す朝日新聞社という対比を示した。この章で最も気になったのは、朝日新聞者による「NHK番組改変問題」報道事件の顛末なので、それに関して少し書きたい。

 2001年1月、NHK教育テレビがドキュメンタリー番組「問われる戦時性暴力」を放送。これは、2000年12月に東京で市民団体が開いた「女性国際戦犯法廷」を素材に、旧日本軍の従軍慰安婦問題が国際的に広がりを見せている実態を描こうとするものだった。しかし、この番組は放映直前に、加害者である元日本兵の証言等が大幅に削除され、従軍慰安婦を否定する昭和史研究家のインタビューが代わりに挿入されるなど、その内容が大幅に変えられていた。直前による変更のために調整が間に合わず、45分間の放送予定だったものが40分番組になってしまったという。4年後の2005年12月1日、朝日新聞がこの番組の製作過程に安倍晋三、中川昭一の介入があったことをスクープ。しかし、松尾武・元NHK放送局長を含めた関係者一同は揃って事実関係を全面否定、明確な裏づけがない事を理由に朝日新聞社を批判した。2005年9月、取材内容をまとめた内部資料がジャーナリストの魚住昭にすっぱ抜かれた。ここで、安倍や中川両議員本人、松尾氏らが介入を肯定したインタビューを無断録音したテープの存在が明かされ、朝日のスクープの裏付けが証明された。これに対し、自民党とNHKは無断録音を批判。証言内容の全否定は諦め、内部資料の流出が意図的であった疑いを強調し、事実関係の完全な立証を要求した。朝日新聞社の秋山社長はこのリークに関して謝罪。しかし、記事そのものに関しては謝罪も訂正もしなかった。自民党の役員会は朝日新聞記者に対する取材拒否を機関決定。NHK、産経新聞や読売新聞だけでなく、毎日新聞までもば朝日バッシングに走った。著者は、秋山社長の謝罪会見は、テレビニュースを観ていた視聴者には、NHK番組改変事件報道の全てを謝罪しているように受け取られた可能性があると、「パロティング」の危険を主張。あらゆるメディアが朝日バッシングに走ったことを、権力への忠誠競争として批判している。なお、このスクープを報じた社会部の本田雅和記者は、この一件後左遷されたという。この事件については、メディアの危機を考える市民ネットワーク編『番組はなぜ改ざんされたか』(一葉社、2005年)にまとめられている。

 この章で著者は、日本の戦後の平和運動や平和教育には、重大な欠陥があったと指摘する。それは、ヒロシマ・ナガサキの原爆や東京大空襲、引き揚げなどの被害体験ばかりが語り継がれ、加害体験はあまり省みられることがなかったというもの。バブル経済による経済的な繁栄が日本人に他者を思いやる余裕を芽生えさせたが、バブル崩壊や雇用環境の変化が利己的で拝金主義的な世相をもたらし、阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件によって日本国民は加害者としての歴史を忘れ、被害者意識の塊になっていったとする著者の指摘は興味深い。しかし、バブル経済期に日本を讃える保守主義が勢力を伸ばしたことも確かだろう。加害者としての歴史を否定する勢力は、いつの時代も一定程度の力を有していたと感じる。

 最終章にあたる第7章では、米軍と自衛隊の日米軍事同盟についてまとめている。普天間基地移設問題(今話題になっている問題が2006年頃から存在したことは知らなかった)や下地島空港軍事化などを挙げ、この頃叫ばれ始めた“米軍再編”は、米軍の世界戦略の一部分に自衛隊が完全に組み込まれることだったと指摘。そして、最後に、Winnyによって流出した自衛隊の秘密文書が紹介されている。この文書は、海上自衛隊佐世保地方隊が2003年11月7日から10日間にわたって展開した実働演習の計画書だったという。内容は、北朝鮮(文書中では「茶」国)が経済制裁を受けて深刻な経済危機に陥り、戦時態勢に移行。反アメリカ(「緑」国)キャンペーンが始まり、軍事行動の兆しが見られるようになる。中国(「黄」国)も、アメリカが中国市場からホットマネーを一斉に引き上げたことで株式市場が大暴落。一方では尖閣諸島(S諸島)の領有権を主張したり、その周辺海域で漁船が領海侵犯し、日本(「青」国)の巡視船へ体当たりするなどし、やがて北朝鮮と中国は共同してアメリカおよびアメリカを支援する国家への妨害を開始。この過程で日本の周辺事態法が発動したとする筋書きだったという。これに従えば、自衛隊は相手が軍事行動を起こす前に、米軍と共に戦争を仕掛けており、専守防衛は守られず、集団的自衛権が堂々と行使されている。著者は、「機密」「極秘」よりもはるかに秘密性の低い「秘」扱いの文書に憲法違反の疑いが読み取れてしまうことの危険を指摘している。

 最終章で触れられた秘密文書が防衛庁から洩れたものだということを100%証明することはできないようなので、断言するには多少慎重にならざるを得ないように感じるが、自衛隊の行動範囲がますます広くなっているのは確かだ。

 憲法九条だけでなく、国旗・国歌法の制定に伴う日の丸・君が代問題など、公権力の干渉はますます広範囲に及んでいる。これまで、改憲といえば憲法九条に注目していたが、多角的な視座から改憲潮流が分析されている本書の内容はなかなか興味深かった。国民投票法が施行される2010年。動向に注目すると共に、新聞やニュース、関連書などにもっと触れておく必要がある。現状では、改憲派が多数派なのだろうと思う。しかし、時代遅れとして改憲を主張する人は、世界トップレベルの平和条項である憲法九条を変えてまで、(アメリカが主導する)時代の波に乗ることで、どこへ行き着こうとしているのか。一方で、そもそも、憲法九条が戦後、政治家だけでなく日本国民にどの程度尊重されていたのか、疑問に思う。改憲の後、日本がすぐさま戦争を始めるとは思わないが、その先にあり得る徴兵制や、歴史修正主義の台頭といった現状が示唆する日本国民の歴史観に不安を抱かずにはいられない。本書刊行は4年前。アメリカの世界戦略自体が、一様ではないだろう。2006年までの物と割り切って読むのが吉だ。

at 18:12, kazimierz, 書籍

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小林多喜二――21世紀にどう読むか

評価:
コメント:ノーマ・フィールド/岩波書店/2009年

 『蟹工船』を読んだ時感じた、プロレタリア文学をどう読むかという問題を解決すべく、小林多喜二の伝記を探し、2009年刊行の手ごろな新書を発見したので読んでみた。内容は、秋田生まれ小樽育ちの小林多喜二が上京し、特高に検挙され拷問死するまでの生涯を、彼の作品と共に紹介するというもの。著者なりの作品解釈に多くの頁が割かれており、とても充実している一方、作品説明が割り込むことで多喜二の生涯が若干分かりづらくなっているように思う。

 マルクス主義が高揚した50年、60年代はともかく、現代では特に、芸術に政治性を伴ったプロレタリア文学は、文学作品としては二流だと見なされがちである。こうした評価に対し、著者は否定的な立場を取っているが、私自身『蟹工船』を読んだ際、プロパガンダ性の高い部分には違和感を覚えずにはいられなかった。戦前からの社会主義者弾圧、戦後ではソ連の崩壊や連合赤軍のような新左翼運動といった負のイメージが強すぎることが、その原因として考えられるだろう。そうした経験を経た現代では特に受け入れられがたいということはあるだろう。しかし、『蟹工船』ブームからは、いつの時代も変わらない、格差社会に生きる人々の真っ当な生活を求める声を感じ取ることができる。資本主義社会が続く限り、その負の側面とも言える理不尽な経済格差は決して解決されることはない。その点でプロレタリア文学は一定の普遍性・重要性を持ち得、『蟹工船』は何度でもブームに成り得るのではないだろうか。小泉政権以降、新自由主義が台頭している現状では特に、そうした確信を抱かずにはいられない。

 小林多喜二は労働運動と家族・恋愛との両立をテーマにいくつも作品を残しているという。その全てとは言わないが、『党生活者』や獄中書簡あたりは読んでみたい。

 最後に、この新書の副題「21世紀にどう読むか」に関してだが、小林多喜二と21世紀の関わりについての記述がいまいち物足りない。彼の作品は戦前の、労働運動をテーマにしたものが多いが、現在でもブームになったように、普遍性があると思う。「21世紀にどう読むか」というタイトルを掲げるのならば、現代の社会問題と絡めて、そうした普遍性に踏み込んでもよかったのではないだろうか。

at 17:11, kazimierz, 書籍

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尼僧ヨアンナ

評価:
コメント:イヴァシュキェヴィッチ(関口時正訳)/岩波書店/1997年

Jaroslaw Iwaszkiewicz, Matka Joanna od Aniołów, 1946.

 …ヨアンナの口からは、熊が舌なめずりするような、喉を鳴らすような、奇妙な音が聞こえてきた。神父たちは十字を切って祈った。
 ラクタンチウス神父は続けた。
 「返事をせよ! バラアム、イサアカロン、アスモデウス、グレズィル、アマン、ベゲリット! おまえはそのどれだ?」
 「俺はザパリチカさ」ヨアンナは不意に細い声で叫んで、それまでの姿勢から膝を曲げずに起きあがり、体を伸ばした。そして「何なりと仰せのままに」と、いたずらっぽい笑みを浮かべて付け加えた。(121頁)


 イェジー・カヴァレロヴィチによって映画化され有名になったこの小説は、フランスの小都市ルーダンで実際に行われた悪魔祓いを、ポーランドの作家イヴァシュキェヴィチが舞台をポーランドに移して小説として書き上げたものらしい。尼僧長ヨアンナのモデルとなったのは、フランス王シャルル7世などを輩出した南仏の名家に生まれたジャンヌ・デ・ザンジュJeanne des Anges(1605-1665)。17世紀中ごろ、ユルバン・グランディエというルーダン司祭が、悪魔と契約を交わし、修道女らを惑わしたとして裁判にかけられ、焚刑に処せられた。この裁判は、国王ルイ13世の宰相であり枢機卿であったリシュリューの策略とされているが、ともかく、このグランディエによって悪魔憑きに遭ったとされたのがジャンヌを始めとするルーダンのウルスラ会修道院の修道女たちであった。1634年、イエズス会士ジャン・ジョゼフ・スュランJean-Joseph Seurin(1600-1665)が祓魔師として派遣され、ジャンヌの悪魔をわが身に引き受け、その悪魔との闘いの記録を『神の愛の勝利』という悪魔祓いの報告書に残した。イヴァシュキェヴィチはこの報告書を参考にして『尼僧ヨアンナ』を執筆したとされる。物語の焦点はグランディエ(作中ではガルニェツ)の処刑後に当てられ、それ以前の経緯は史実を踏襲している。

 ルーダンの悪魔憑きは、さまざまな文学作品のテーマとなっているが、グランディエや尼僧たちに焦点が当てられたものが目立ち、スュラン神父を主人公に据えたこの作品は例外的なものと言える。さらに、著者であるイヴァシュキェヴィチの経歴も一風変わっている。彼はウクライナのポーランド人夫婦の間に生まれ、作曲家カロル・シマノフスキと血縁関係にあったという。第一次世界大戦が終わり、ポーランドが地図上に再び復活すると、彼はスカマンデル・グループの中心メンバーの一人として、両大戦間期のポーランド文学界で活躍。いくつかの公職も務めた。ナチスによる占領中はレジスタンス運動を指揮、戦後はソ連指導の共産党政権の下、国会下院議員を務めながら執筆を続けた。『尼僧ヨアンナ』は、彼がポーランドを代表する文人として活躍した両大戦間期に書かれたものである。

 悪魔憑きは、現代ではパニックやトランス状態、夢遊病や統合失調症、妄想性障害やアルコール依存症などの現象であったと理解されているようだが、17世紀当時は、悪魔が憑依したものだとして、迫害の対象となった。コンスタンツィア、ズィグムント・アウグスト、ステファン王などの名前から推測するに、コンスタンツィアはズィグムント3世の妃コンスタンツィア・ハプスブルジャンカ、ステファンはステファン・バトーリであり、時代設定としてはズィグムント3世統治下の17世紀初頭だろうと思われる。この頃といえば、敬虔なカトリック信者であるズィグムント3世の保護下でイエズス会が急速に力をつけ、ポーランドにおける対抗宗教改革の勢いが一気に加速した時代である。魔女裁判がほとんど行われなかったと言われるポーランドを、筆者はどうして悪魔憑き事件の舞台として選択したのか。両大戦間期に、どうして悪魔憑きをテーマとした作品を執筆したのか(悪魔はナチスを象徴しているという批評も見られるようだが、それだけがテーマだとは思えない)。ヨアンナを愛したスーリン神父(スュラン神父がモデルの主人公)は、彼女に憑いていた悪魔たちを引き受け、悪魔たちが彼女に再び取り付くことがないよう、自ら神を裏切るわけだが、その際に利用したのが、どうして不信心な貧乏郷士ヴウォトコヴィッチや罪を犯した尼僧マウゴジャータ、ジプシーのユゼファや体のみを目当てに女性に近づく廷臣フションシュチェフスキなどではなく、純粋な青年2人だったのか。ヨアンナやマウゴジャータのその後など、クライマックスに様々な暗示があり、簡単には理解できない。

 岩波版の翻訳は他社のものより難解になることが多いが、関口時正の翻訳はそれほどでもなく、とても読みやすかった。

at 16:19, kazimierz, 書籍

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マクベス

評価:
コメント:シェイクスピア(木下順二訳)/岩波書店/1997年

William Shakespeare, Macbeth, c. 1603.

マクベス どこから響いてくる、あの音は?――
どうしたのだ、おれは? 一つ一つの音にどきりとする。
何という手だこれは? ああ! 両の眼が飛び出しそうだ。
みなぎりわたる大海原の海の水ならこの血をきれいに洗ってくれるか。
いいや、この手のほうが逆に、うねりにうねる大海の水を朱に染めて、あの青さを赤一色に変えてしま
 うだろう。

  マクベス夫人再び登場

マクベス夫人 わたしの手も同じに真赤。けれど決して心臓をそんなに蒼ざめさせたりはしません。
 〔戸を叩く音〕 あ、戸を叩く音、南の入り口だ。
部屋へ帰りましょう。ちょっと水があればやったあとなどきれいに消せます、何でもないことよ!落ち
 着きをどこに忘れていらしったの?――〔戸を叩く音〕 ほら! まだ叩いてる。(48‐49頁)

at 08:56, kazimierz, 書籍

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オネーギン

評価:
コメント:プーシキン(池田健太郎訳)/岩波書店/1962年

Александр Сергеевич Пушкин, Евгений Онегин, 1832.

 「ところが僕は仕合せのためには生まれついていないのです。僕の魂は仕合せには無縁なのです。せっかくのあなたの完全さも所詮はむだで、僕は全くそれに価いしないのです。信じてください(良心に賭けて申します)、結婚生活はお互いに苦痛となるにきまっている。どれほどあなたを愛していたにせよ、僕は一たん慣れたが最後、すぐさま愛想がつきてしまう。あなたは泣きはじめる、が、あなたの涙は僕の胸を打つどろこか、かえって僕の心を重くするのが落ちなのです。まあ考えてもごらんなさい、一体どんなばらの花を、縁結びの神は僕らに用意してくれるでしょう。それもおそらくは長い長い年月のことなのです。」(65‐66頁)

at 08:39, kazimierz, 書籍

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(500)日のサマー

 マーク・ウェブ監督/ジョセフ・ゴードン=レヴィット、ゾーイ・デシャネルほか、2010年1月公開

 '(500) DAYS OF SUMMER', USA, 2009.

at 09:49, kazimierz, 映画

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草枕

評価:
コメント:夏目漱石/岩波書店/1990

とりあえず読了。

at 09:40, kazimierz, 書籍

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蟹工船

評価:
コメント:小林多喜二/岩波書店/2003

とりあえず読了。

at 09:34, kazimierz, 書籍

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剱岳

評価:
コメント:木村大作監督/浅野忠信、香川照之、松田龍平、仲村トオル、宮崎あおい、役所広司ほか/2009年6月公開

少し期待はずれの感は否めない。

at 09:42, kazimierz, 映画

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